視覚障害者のための NPO法人 尼視協  *[尼崎市視覚障害(者)協会]

〜〜 創立 70 周年 記 念 文 集 〜〜

順不同

 

懐かしい思い出  尼崎市議会議員 NPO法人尼視協 顧問 北村 保子

 

 NPO法人尼視協(尼崎市視覚障害者福祉協会)の皆様、このたびは創立七十周年をお迎えになり心からお慶びを申し上げます。

 尼崎市視覚障害者福祉協会は、昨年市政百周年を迎えたわが町尼崎市と共に七十年の歴史をコツコツと刻んで参りました。
 顧みますと、まだ現在の身障会館がなかった頃、皆様の先輩方がからたち幼稚園の大部屋に集まって練炭のカンテキで火をおこし、すき焼きの鍋を囲みながら賑やかに楽しいひとときをもっておられた光景を覚えています。そして、白い割烹着姿の母、小西ヨシ子が台所でせっせとお食事の用意をしていた姿が昨日のことのように甦って参ります。戦後間もない荒れ果てた環境の中ではありましたが、人と人とが寄り添い悲しみや苦しみを乗り越えて幸せをつかもうという思いが込められていたように思います。
 私にとっても、尼崎市視覚障害者福祉協会の皆様とのお付き合いは随分長くなり家族のように思われます。
 さて、身障会館もここ数年、老朽化が進んでいます。近い将来には移転も含めた今後のあり方を考えなくてはなりませんね。よくよく行政とも話し合いをする中で最善の方法を決めていかなければなりません。
 それでは皆さん、尼崎市視覚障害者福祉協会の歴代会長はじめ役員の皆様そして会員の皆様が築いてこられた七十年の歴史と伝統を重く受け止め、これからの更なる発展をめざし共にがんばって参りましょう。私もNPO法人尼視協の顧問といたしまして大変微力ではありますが皆様のお役に立てるよう心をこめて努めて参る所存です。

平成二十九年二月吉日

 

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対談 ― 尼視協と共に―   話し手 佐藤 正子  聞き手 金谷 武子

 

金谷:佐藤さん、こんにちは。尼視協の70周年を迎える年になりました。佐藤

   さんも私も尼視協より歳はちょっと先輩で、視力障害も生まれつきです。
   佐藤さんは全くお見えになりませんが、私は強度の弱視です。佐藤さん
   は特に印象に残った小さい時の思い出は何かありますか?
佐藤:70周年おめでとうございます。思い出はいろいろありますが、昭和25
   年のジェーン台風の事が忘れられません。私が7歳の時でした。近畿一
   円を襲った台風は荒れ狂い、生きた心地もしませんでした。2階の一角
   に家族が避難して切り抜けました。その後でおじが泳いで安否を確かめ
   に来てくれ、周りの人達にも親切にしていただいて、人の暖かさ優しさ
   を知りました。
金谷:それは大変でしたね。佐藤さんはご事情があって盲学校に入られたのは
   15歳の時と聞きましたが学校へ入ってどうでしたか?
佐藤:そうですね。盲学校は普通と違って点字を習ったり職業教育を受けたり
   と全く戸惑いました。慣れてきて友達もできてからは楽しい学校生活を
   送ることができました。何よりもあんま、マッサージの免許を取ったこ
   とです。生活の自立ができた事が一番だと今でも思っています。
金谷:今の生活はどうしていますか?
佐藤:今は弟家族と二世帯住宅で主に義妹にお世話になっています。
金谷:これからの尼視協に望む事は?
佐藤:そうですね。なるべく若い人が増えたらいいですね。そして楽しい事や
   学習すること、そういった取り組みに参加していきたいですね。でもこ
   の頃は耳も聞こえづらくなり、目も耳もそれに身体の不調がある場合は
   参加しづらくなりました。だから参加できた時はとても楽しいです。元
   気でいられる限り尼視協の活動に参加したいと念じています。
金谷:佐藤さんも大変な人生を送られているのですね。私たちの仲間はみんな
   大変なのですが、努力しています。新しい年に希望をもって70周年を
   一緒に祝いましょう。ご協力ありがとうございました。

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尼崎市視障協と私   堀口

 

 1961年に会員となり半世紀以上過ごしてきました。入会から20年余り経って園田地域の理事を引き受けました。積極的にかかわるようになったのは1985年に娘を見送ってからのことで、佐藤直さんから文化部長を引き継ぎました。

 最初に手がけたのはテープによる活動報告と行事予定のお知らせでした。百貨店の案内係をしていた谷口信子さんが、原稿を書いてくれたら録音を担当しますと、協力を得ましたので早速実行。年に4回、理事会後に発行しました。谷口さんの甘い声、滑らかな朗読で4年間16号まで続きましたが、結婚して録音担当を辞退されました。17号からは眠り声、たどたどしい読みの私が録音もすることになり結局、声の会報は21年間・84号まで続けました。
 声の会報は会員の皆さんにも喜ばれ、文芸をはじめ、行事の感想や意見発表もありました。藤原和夫さんのエッセー『ナッチーの武勇伝』は、もくよう会の協力で活字化され、マドンナの協力で録音テープとして、また活字本として販売。50万円あまりを関西盲導犬協会へ寄付することができました。
 2000年4月から会長を引き受けましたが、総務・会計・芸能部のほか活動グループの担当者が責任をもって支えてくださり、さらに賛助会員の方々、会員家族およびガイドヘルパーの皆さんが各種活動に惜しみなく協力してくださいました。会長になった私は北村保子市会議員を顧問にお願いしました。
 北図書館との共催で読書機器展を始めて、今も続いていることはよい点ですが、地域との交流面で人気のあった地域治療活動ができなくなったことは大変残念なことです。
 東に猪名川、西に武庫川が流れています。川の流れ、時の流れのように尼視協のメンバーも活動内容も移り変わっていきます。会員・役員の皆さんの支え合いによって会のますますの充実・発展を祈るばかりです。「尼視協なんでも言う会やろうかい、そしてみんなで楽しむ会」でありますように!

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アイフレンズへ出掛けました   堀口

 

 日本点字図書館が盲人用の便利商品の販売と開発をはじめて半世紀、50年が過ぎました。我が家にいくつも重宝しているものがあります。

 大阪のアイフレンズが創業30年、創業まもない頃に何度か出かけたことがあり、身障会館で便利商品の展示、説明会をしていただいたこともありました。
 社長の亀甲さんとは先輩後輩ということもあって、1993年には50数万円で初めてのパソコンを購入しました。新年13日にJR西九条近くの店を20数年ぶりに訪問しました。
 私は光の世界から閉ざされて60数年になります。治療中に日が暮れて患者さんから「先生、電気を点けてくださいますか?」と言われることがあったり、人けのない部屋に灯りが点いていたりということもあります。
 最初に見せてもらったのが振動式光チェッカー。これはライターあるいはUSBのような片手に収まるもので、ある明るさの度合いによって振動が変わるというものです。同行のヘルパーさんも試してみて納得していました。
『5,500円』
 次に、歩行補助具「パームソナー」に触れながら説明を聞きました。光チェッカーと同じように片手におさまるものですが、電源のオン、オフも障害物との距離を決める操作も軽く押す方式で、使いこなすまでに時間がかかるとの事でした。私としてはとても興味があるのですが、今の外出事情から考えると必要度が低いと思いました。 『8万円』
 最後は電磁調理器を見せてもらいました。我が家は30年前の三洋電機の物を使っていると話すと「あれは優れものです」と言われました。そしてアイフレンズで取り扱っている物の説明を聞きながら触れてみました。我が家の物よりは面積が大きく、声はやや小さいのですが明瞭でした。また、使いやすいように手触りの工夫がされていました。 『日常生活用具』
 点字タイプライター、点字プリンター、点字盤のことなどひとしきり話し合いました。互いに歳をとったこと、そして亀甲さんは若い頃と変わりないようですが、「奥さんは貫禄がつきましたね」というと、「ずいぶん太りました」と笑って答えられました。

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前を向いて明るく   不動 香苗

 

 尼視協70周年おめでとうございます。

 理事を務めさせていただいて3年目になる不動です。
 私は網膜色素変性症という病気で、平成12年に視覚障害2級と診断され、絶望に沈んだ毎日を送っていた時、市報で点字教室の案内を目にし、そこで高野政江さんに出会い尼視協の仲間に入れていただきました。
 行事にはあまり参加できていませんが、まだ少し残っている中心部の視力でスマートフォンを使って情報を取得したり、会員の方に代わってネットでの買い物のお手伝いをしています。また家庭においても何とか家事をこなして頑張っています。
 この病気は進行性で、視野が狭くなっていく病気なので、よく物にぶつかったりしてアザが絶えません。
 先端医療センターの高橋政代先生らによる、IPS細胞を利用した治療法が開発中とのこと、一日も早い治療法開発を強く望んでいます。
 自分自身も障害に屈せず、前を向いて明るく、頑張っていきたいです。

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視障協と出会って   坂本 泰美

 

 私は尼崎視障協に身をおいて13年になります。

 13年前、私は医者から網膜色素変性症と診断され、やがて見えなくなるだろうと言われました。その時は実感がなく、働いていましたのでまさかという気持ちでした。
 しかし視野が狭くなり今までどおりに働けなくなり、退職することになりました。私は焦りました。このままで見えなくなった時、どうしたらいいのだろうと…。どこに行けばいいのか、誰にきけばいいのか。
 私はなんと障害者のことを何も知らないということでした。幸いなことにJRPSという会があり、そこに参加することで同じ病名の仲間と親しくなりました。
 そのなかで神戸の方と親しくなり、その方から尼崎の点字サークルひとみの代表者を紹介してもらいました。点字のことなど全然知らない私でしたが、代表者の方が一度見学においでと誘ってくださり見学に行ききました。
 その頃は公民館の一室で皆さんが楽しみながら点字の勉学に励んでいました。それを見て「すごいな!」と思いました。私も習い始めましたが、初めての私にはなかなか難しくついて行けませんでしたが 親切に教えてくれました。
 そのなかで皆さんと親しくさせていただき、視障協の会員になりました。いろいろな行事に参加することでガイドさんの大切さを知りました。目は不自由でも普通に暮らせるということも知りました。
 視障協に出会っていなければ、もっと落ち込んでいたかもしれません。いつも前向きな皆さんと出会えたことが人生を変えたと思います。今、私のできることを精一杯やってみようと思えるようになりました。
 私と同じように思い悩む方が尼視協を知って、少しでも前向きに生きて行けるようになるといいなーと思います。

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子育て中の楽しかった「笑い」   岸田洋子

 

 皆様こんにちは。

 最初に子育て中に楽しかった笑いを書いてみようと思います。
(1)
 京都の製菓学校を出た四女は、市内のケーキ屋「ショウタニ」に正社員として就職した。
 朝は早くから帰りは夜中というお勤めですが、いつも生き生きと楽しんでいた。ある朝のこと5時過ぎに朝食を終わった後、コーヒーを飲もうとポットの再沸騰を押さえる時ピッともウンともスンともいわない。ポットに「おい、やる気あるんかい。しっかりせい」と思わぬ面白い言葉を聞いて、私はおかしくて大笑い。私は「でもなぁ、おとなしい人もいる」と冗談で言うと「もうちょっと厚かましくてもいい」とまたポットに向かって言う。更に大笑いした。この思いが自分の信念なんだなと思いました。
 そこで私は真面目にコツコツ生きていることも素晴らしいことだけど、時によっては自分自身の意思をはっきりときちっと伝えることが大切であることと、また時には相手にいい言葉がけをしていく大切さも学んだ朝のひと時でした。

 

(2)
 風邪をひいている四女と五男の食事時のこと。四女「この魚は骨が多いなあ」、五男「アジはすごく美味しいんやけど、この骨すごいなあ」、四女「風邪ひいてるから今日のご飯全然味せえへん。味わからんし食べてるのや食べてへんのやら、さっぱりわからへん。おまけに骨が多いから舌に刺さって!」、私「それでどうなったの」、四女「抜こうと思っても奥へ奥へ入っていくし」、私「それで」、四女「裏から抜いた」。
 私は安堵の気持ちがしたものの、そんな大変なことを淡々としゃべる喋り方におかしくて笑った。すぐ五男が「これはお母さん向きやないんやで、友達には話しなや」。笑いをおかずにゆったりと美味しそうに食べていた。私はお笑いに気づきうんと笑った。そこで私が釣られた魚だったんやと更におかしい。この二人はコンビでよく笑わかしてくれました。

 

(3)
 潮江まで足をのばして連れて連れられて買い物に行った帰りのこと。だいぶん家に近づいた頃、私ももう少しやと気が緩んだのか両手の買い物袋が急にズシッと重くなり、そこで「トシくん、何か一つ持ってくれる」と頼むと「持っているよ」と言う。「何か持ってもらったかな」と言うと「僕一番大きいのを持ってるよ、お母さんを」と言う。
 ユーモアな返事にわらって笑ってほんとに身も心も楽しい思いで玄関に到着。五歳なのに一人で自由に遊び、一度もグズグズ言わず本当によく助けてくれて幸せでした。

 家のためによく助けてくれた子供たちも中学にあがるとクラブが始まり、時間はそれぞれの人生へと始まっていった。どの子も目は見えるし元気でありがたい。どの子にも入学式にのぞみ、いつも励ましと応援の祈りで胸がいっぱいでした。
 その後は視障協に入会していたことから、「のぞみ」さんにはずいぶん助けていただき有り難く幸せに思ったことでした。
 主人も余暇を視障協の活動にいそいそと出かけ、文化系、運動会に旅行にと生きがいある人生を過ごさせていただきました。
 肩の荷が下りた私は高齢にはなっておりますが、ありがたいことに視障協ではいろいろなお楽しみ行事を理事さんの方々が企画してくださり、いろいろ参加して楽しく過ごさせていただいております。
 中でも音楽関係(コーラス、大正琴、カラオケ)は好きだということと、発表会がよくある事が励みになって家でよく練習するのですが、気力を前へ前へと押し出して励みます。エネルギーが切れて足腰の痛みを感じたら、すぐベッドに横になるのですが気づいたら練習をしているといったふうに、日常の楽しみになっています。皆さんと一緒の演奏、合唱だから力も入ります。
 健康を維持しながら楽しんで暮らしたいと思います。また皆さんと触れ合う時の声を出してのおしゃべりも楽しいです。そして子供から学んだようにおしゃべりの中で時によっては自分の意思をはっきりわかりやすく伝えることや、相手にいい言葉がけが出来るようにも今更ですが励みたいと感じています。これからも皆さんよろしくお願いします。

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薬害と編み物   手編み一進会  広部 景子

 

 私が尼視協に入会したのは35年前、国際障害者年に「ひかり学級」が立花公民館で始まる事を市報で知り参加したことがきっかけでした。

 尼視協との関わりは会の歴史の半分の35年になりますが、障害をもたらした薬害との関わりは50年の半世紀にもなります。
 私が薬害「スモン」を発症したのは高校2年の時。東京オリンピック開催、新幹線開通など日本経済が高度成長していく中で健康保険制度もまた充実し、病院で投薬が長期大量にできるようになっていった、そんな社会と密接な関係の中で起こった病気と言えましょう。
 当時の製薬企業は品質管理だけが義務付けられており、副作用についての警告義務は負っていませんでした。
 抹消神経 及び 視神経麻痺が生じる「スモン」の原因は、昭和45年(1970)、整腸剤「キノホルム」の長期服用の結果と判明するまでは、「キノホルムがスモンに効く」との誤った医学論文の発表にそってキノホルムの長期大量服薬が繰り返されました。
 そのためキノホルム剤の生産が追いつかず、若い人が優先された結果、重症患者は私たちの年代に多発しています。ちなみにスモン患者の2割に視覚障害が出ていますが、その多くは10代で発病した人たちです。
 私は近畿中央病院で半年整腸剤としてキノホルムを飲み、抹消神経麻痺が出てきたところで労災病院にかわり、昭和45年に原因がキノホルムと発表されるまでの5年間「治療薬」としてのキノホルムを服用し、視神経も麻痺してしまいました。
 スモンという副作用をもたらす薬が有効な治療薬という論文が医学会で信用された結果、信じられない惨状が生じたのです。
 原因がわかった時点で「治療法はない」と言われ労災病院を退院し、その後は鍼灸などもっぱら東洋医学のおかげもあって歩けるようになり、また視力障害もルーペでかろうじて読み書きができたので休学中の大学に復学しました。
 その頃、国と製薬会社を相手取っての裁判が始まりました。しかし、そのために必要な診断書・投薬証明を労災病院は出してくれず、やむなく5年以上経過していた近畿中央病院に行きました。当時の先生がまだおられて、麻痺が足から胸そして全身におよび「先生、しびれを取ってくれ」と言いながら亡くなった大学院生のことが忘れられないと言われ、投薬証明書を出してもらえました。3万人以上と言われた患者のうち証明できたのは6600人でした。

 

 話は尼視協に移ります。
 入会してすぐに編み物教室に誘っていただき現在までお世話になっています。編み物教室は尼崎にボランティアセンターができた時に林嘉代子先生が登録され、尼視協の先輩の川村貞美さん、大城ユキさんが中心となって昭和52年に発足したとのことです。
 たまたまその林先生のとても懇意にされていた方の息子さんが先に述べた亡くなった阪大大学院生で、その経過もよくご存知でした。またその直後には、全く同じ症状であれよあれよという間に大親友を亡くされておられました。その方は大阪の地下鉄工事で眠れなくなり睡眠薬を服用されていたそうです。そのことをずっと疑問に思っていたところ、今年初めて国のスモン研究班の発表会に参加して、睡眠薬などの長期服用でも抹消神経、視神経に障害が出ていた事を知りました。
 当時は薬が大量に出回る過渡期で、病院の薬剤師は医師の処方を間違いなく渡すだけで、副作用については全く関与できませんでした。

 

 結局スモン訴訟は示談になり、その条件の一つに国に対して薬害の防止に努めること、医薬分業とし調剤薬局ではお薬手帳を出すなど薬剤師による副作用チェックが出来る体制が整ってきました。
 また10年ぐらい前から兵庫医大や神戸大学医学部で薬害の講座が設けられ、学生さんに体験を聞いてもらっています。研究中の論文発表の誤りは咎められないとは言え、多くの障害者を出したこと、諸外国では少数の犠牲者だけですんでいることなど衝撃をもって聴いてくれています。
 最近は薬剤師の研修にも参加させていただき、忙しい医師には言いにくいちょっとした変化を薬局窓口で聞いていただく事をお願いしています。 薬は素晴らしい効き目と同時に毒ともなります。副作用は完全に防止する事はできませんが、できるだけ小さいうちに発見して副作用の防止につながればと念じています。

 

 私は50年前、医療ソーシャルワーカーになって障害者の社会復帰のお手伝いをしたいと大学に進学しました。
 しかし実のところ眼科では診断と視力検査だけで、生活の質を向上させる器具や訓練施設の紹介など皆無でした。それが視覚障害者リハビリにも目が向けられるようになり、来年ポートアイランドにできる「アイセンター」で、高橋政代先生のIPS細胞による網膜治療だけでなく視能訓練士によるリハビリ、社会復帰まで取り組んでいただけるようです。地域においてその一端を少しでも担えればと思っています。

 

 最後に編み物の事に戻りますが、人には手作業、単純な繰り返しのように見えて、それでいてその積み重ねで作り上げるという本能があるように思います。
 薬害の半生を編み物が支えてくれたように思えます。長年にわたって視覚障害者に編み物を教え続けてくださった林先生をはじめ二神編み物教室の皆さまに感謝しています。

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インタビュー ― 点字サークル ひとみ ―

 

 NPO法人尼視協が今年70周年を迎えるにあたって、点字サークルひとみで一緒に勉強している青松さんと正能さんに、金谷がインタビューさせていただきました。

 

金谷:青松さん、正能さん、こんにちは。「ひとみ」の時間をお借りして記念文集を
   作るにあたってインタビューさせていただきます。
青松・正能:尼視協の70周年、おめでとうございます。
金谷:お二人が目の異常に気づいたのはいつごろでしょうか?
青松:おかしいなあ?と思ったのは50歳ごろです。完全に見えなくなったのは3、4
   年後だと思います。
正能:私は27、8歳ぐらいで少しずつ見えなくなってきて、全く見えなくなったのは
   33歳でした。
金谷:私は強度の弱視で生まれた時からだったので、全盲の人の気持ちは本当の意味
   でわかっていないと思います。お二人とも中途失明ということは生活が変わっ
   たでしょうね。
青松:全盲になってからは人の手を借りなければ何もできなくなったので開き直った
   ところもあるのです。見えづらい時はバスの行き先表示がわらない。乗り降り
   が怖くて不便。お手洗いの出入りなど困った事がたくさんありました。私の
   ところは夫も病気で身体が不自由で気持ちはあっても手が届かないし、子供
   たちは自分たちのことで精一杯なんです。
正能:私のところは二人だけで食堂をしていました。私が見えなくなってからは下
   ごしらえのきざみ物や洗い物をしていたのだけれど、10年ほどでやめて今に
   至っています。
金谷:それで点字を習おうと思ったきっかけは?
青松:今から10年ほど前だったと思うのですが、点字サークルひとみがあることを
   知り入りました。でも手がしびれたり病気になったりとなかなか進まないの
   です。
正能:私も同じころに入って一緒に勉強しています。私はだいぶ読んだり書いたり
   できるようになったのですが、あやふやなところがあったり書き損じたりする
   のです。でも楽しいです。
金谷:「点字サークル ひとみ」や尼視協に望むことはありますか?
青松:生活の悩みなど気楽に話せる場があるといいですね。みんながどんな工夫
   をしているのかも知りたいです。
正能:私の場合は慣れたヘルパーが辞めたり、利用時間が足りなかったりで、
   サークル活動にも出られない時があります。バス旅行にも一泊旅行にも行き
   たいですね。尼視協の行事にはできるだけ参加したいです。
金谷:私たちの尼視協が未来に向かって続いていけるように、これからも努力して
   行きましょう。今日はお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

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私の体験 ― 裁判員制度の裁判員に参加して  長畑 孝一

 

 今から4年前の平成24年11月に、思いもよらぬ封書が届きました。それは東京都最高裁判所からの親展、裁判員制度の封書で、「あなたは裁判員候補者、平成25年1月1日から同年12月31日迄」と記載。平成25年のお正月を迎えた時はすっかり忘れていました。

 この年の3月に、神戸地方裁判所から5月20日(月)の裁判員選任呼出状が届き出席。50名が面接を受け6名のうちの一人に選出され、午後から補助員2名と共に、担当事件内容説明と審議内容の説明を受けました。
 裁判は5月20日(月)から25日(金)までの期間で行われ、法廷内また審議室でも視力障害をもつ私に配慮して、すすめてくださいました。いちばん大変だったのは「判決」の決定でした。
 更生を願って出された主文内容は、家宅侵入強盗致傷罪、懲役10年で、有罪判決が出されました。
 この裁判員になられた8名の名前はどなたも知りません。呼び方は、裁判員1・裁判員2と番号で呼び合います。
 私は知らない世界を見させていただき、良き勉強になりました。

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点字と私   田村 マツ代

 

 今から15年前に身障センターで、点字というものを初めて知りました。センターで少し習って、松本先生の点字教室に参加することになりました。

 そこで50音を一生懸命に勉強しました。その時 高野さんが松本先生のお手伝いをされていました。それから点字の50音を朝から晩まで勉強しました。肩がこり、指が痛くなりましたが頑張りました。
 少し50音ができるようになった頃、松本先生が日記を書くようにおっしゃいました。私はそれから毎日日記を1年間書き続けました。日記を松本先生に見ていただき、褒めていただきました。
 「これからは1ヶ月に1回の手紙にしましょう」ということで、手紙を書きました。
 私は、点字を習ったお陰で今の人生が楽しくなっています。今でも点字をすらすらとは読めませんし、書いても間違えることがあります。これからも、点字の勉強を頑張っていきたいと思っています。

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パソコンに挑戦して   森 みね子

 

 70周年おめでとうございます。尼視協が、こんなに長く活動されていたのだと初めて知りました。

 私は網膜色素変性症と診断されて10年になりますが、だんだん視力の低下が気になりました。今のうちにハードルは高いけれど、パソコンに挑戦してみようと思ったのです。70歳を半ば過ぎてからのパソコンにはやはりてこずりました。
 そんな時に尼視協をご紹介いただき会の一員に加えていただき、あっ!という間の3年でした。そして他のサークルへも参加し、皆さんの笑顔とパワーを見習いたいと思いました。
 最近「点字やってみませんか?」と言われ「いやいや、できません」と言っていたのに、少し背中を押していただくともうその気になりスタートしました。
 前途多難ですが、脳のサビを少しでも落としたいと頑張っています。ご指導くださる方々の根気と熱意に恵まれて感謝しています。ありがとうございます。

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チャイムとの出会い   磯俣 睦子
 コーラスに来てくださっていたボランティアの上村玉栄さんがクワイアチャイムをなさっていたご縁で、教会でのコンサートを聴きに行ったのがチャイムとの出会いでした。何度か聴かせていただいている間に音色に惹かれ、音楽に遠ざかって久しいおばさんですのにお誘いにのり、平成14年1月に「レインボー・チャイムズ」の一員に加えていただきました。

 音感の無さと加齢とで思うように覚えられず、ポピーさんにご迷惑をおかけしながら叱咤激励を受け、苦しみつつ続けてこられたのは、佐守代表とポピーさんのお力です。
 私の能力はもう限界かと思いますが、十余年も続けてきましたので、あと少し「レインボー・チャイムズ」の一員として皆様と楽しませていただきたく思います。

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旅の想い出   村上 安治

 

 平成3年、姫路での全国盲人大会へ行く時のリフトバスの中で、木付義彦さんが「村上さん、生まれはどこや?」と話しかけてこられました。

「大分の耶馬溪や」と答えると、「俺も大分や。大分の玖珠郡や。あんたの生まれ故郷の耶馬溪から、ひと山越えた所やわ」と話されました。同郷やという事がわかり、それ以来とても親しくなりました。
 それから大石さん、西川さん、西岡さんなど、いろいろな方々との出会いがありました。また尼身連の皆さんともご一緒に「ふれあいの旅」で、一泊旅行をしたことなど楽しい想い出が心に残っています。

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初めての旅行 ― 広島 ―   泉 克幸

 

 2012年4月20日(金) 朝、小雨が降っていたので広島へ着いても宮島には行けないなと思いながら、ガイドさんにJR立花からJR広島までの誘導を依頼し自宅を午前8時過ぎに出発しました。広島に着いたときは雨は上がっていたので、ガイドさんと宮島に行き初めて宮島の水族館を見学しました。

 4月21日(土) 初めて広島の原爆ドームへ行き、資料館に行って当時の様子がわかりました。そのあと平和の鐘を鳴らしました。まだ広島では市電が動いており珍しいので帰りに乗りました。市電の階段の段差が高かったので乗り降りがとても不便でした。
 ホテルに帰って従業員さんから部屋の説明をしてもらい、一人でもエレベーターに乗り降りができるように何回か従業員さんと練習して、翌日からは部屋からフロントまで一人で行けるようになりました。最初は不安でしたが、次第に慣れてきてスムーズに動けるようになりました。
 4月22日(火) 朝、小雨が降っていたけれど広島マツダスタジアムに行きました。
 初めての旅行をして、JRの職員の方やホテルの従業員の方にも良くしていただいたので、楽しい旅行になりました。

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たつの市より   山川 ヨシエ

 

 私は昭和44年に尼崎市の市民となり45年に視障協に入り、皆様との楽しい想い出がいっぱいです。視障協のハイキング、料理教室、編み物などたくさん学ばせてもらいました。

 尼崎視障協での思い出は数々あり、今も思い出に耽っています。
 こちら、たつの市には平成27年11月に来ました。周りにはたくさんの緑、また田んぼや畑があります。海も近いです。春には鶯やいろんな小鳥がにぎやかですし、秋には虫の声も賑やかです。近くには梅林や桜もたくさんあります。近くの海では海水浴ができ、あさり採りで賑わうそうです。
こんな所ですが、とても静かです。簡単ですが近況報告とします。
 これからもますます尼視協が発展されますように祈りながら。

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月間 行 事 予 定 2018 サ ー ク ル 活 動 尼 視 協 便 り [前期] 尼 視 協 便 り [後期] ス タ ッ フ 事 業 の 概 要